ドイツ兵俘虜収容所
本願寺塩屋別院境内墓地

本願寺塩屋別院は丸亀市の西部の塩屋町に位置し、塩屋の御坊(ごぼう)として親しまれています。丸亀駅から約10分、讃岐塩屋駅から5分のところにあり、駐車場も完備しお車での来院も可能です。

現在、特別区画と普通区画の永代使用を受付しております。
永代使用料(墓石は含みません。)

特別区画 80万円(1.2㍍×1.8㍍)
普通区画 60万円(1.2㍍×1.2㍍)

1区画の年間維持費(管理費)

特別区画4,000

普通区画3,000

墓地は土地を購入するのではなく、土地を使う権利を買うことになります。そのためこの使用権のことを永代使用権といいその代金を永代使用料といいます。

なお、宗旨は真宗に限ります。

本願寺塩屋別院境内墓地

本願寺塩屋別院では納骨堂への納骨を受付しております。

特別納骨 8万円
一般納骨 1万円~

1
区画年間維持費(管理費)
特別納骨 3,000
一般納骨 不要

※一般納骨で一度納骨するとお骨はお返しできませんので
ご留意ください。


本願寺塩屋別院境内墓地・納骨堂

塩屋別院の創建は1615年(慶長20)に播州赤穂から製塩業を営む門徒30戸が移り住んだことにはじまる。この時、ともに移転した道場が塩屋別院の前身となった。

当時、この土地を統治していたのは、生駒正俊だった。生駒氏は初代親正が1587年(天正15)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられて以来、4代54年にわたりこの地を治め、高松城築城や城下の整備を行った。初代親正は元播州赤穂の城主で、3代目となる正俊の時、人々が移住して赤穂の製塩法をもたらしたのもこの縁によるといわれている。

讃岐は雨量が少なく、頻繁に干ばつに見舞われ、米作には不向きな土地柄だったが、瀬戸内の豊かで広い遠浅の沿岸に恵まれ、製塩にとっては非常に良とされた気候であった。やがて綿・砂糖とともに讃岐三白としてこの地の経済を支えた。

当時の製塩は入浜式塩田という製法で行われ潮の干満の差を利用し海水を引き入れ日光と風で水分を蒸発させる。塩分を付着させた砂を沼井に集め、海水をかけてかん水を取る方法で瀬戸内を中心にこの頃開発された。

赤穂から移住した門徒たちは、塩田の住まい近くに新しい道場を建てた。境内を囲む石積はその頃廃城となった丸亀城の残石を使用したともいわれている。1643年(寛永20)12月7日、本山から木仏と「教法寺」の寺号を許された。

1731年(享保16)3代目住職智観が後継住職を決めぬまま病死し、後継をめぐって寺族と門徒たちが二手に分かれて争う事態となった。決着は容易につかず、藩の指示で本山に出訴して裁断を仰ぐため代表が京に向かっている。4か月後教法寺に本山の御堂衆の明圓寺が派遣された。実質的に本山召し上げになり3年後の1734年(享保19)藩の承認を得て別院(御坊)となるに至った。
こうして塩屋別院となり、讃岐一円の門徒の拠点として新たな歩みをはじめた。



教化団体
法要・行事
本願寺塩屋別院
勤式練習所
実践運動
四州教区
四州教区教務所・本願寺塩屋別院
浄土真宗本願寺派

〒763-0065 香川県丸亀市塩屋町4-6-1 ℡0877-22-3016

1615年 播州赤穂から門徒30戸が移住。製塩業を営む。
1643年 本山から木仏と「教法寺」の寺号を許される。
1734年 藩の承認を得て別院(御坊)となる。
1738年 御門と築地を建立、京都で鋳造した釣鐘が仕上がる。
1741年 台所建築
1749年 本堂の釿な(ちょうな:起工式)始めを行う。
1746年 勘定所建築
1775年 本堂の上棟式挙行

第1次世界大戦中の1914年からおよそ2年半、塩屋別院はドイツ兵俘虜収容所となった。

日露戦争の頃にはロシア人の捕虜収容所となり350人を受け入れた。

1914年11月16日に丸亀の隣町、多度津港に到着し地元の歓迎をうけ塩屋別院に収容された。本堂の縁側に食堂兼読書室のような腰掛の設備をつくり、一人6枚の毛布が与えられ床に敷き詰められた蓆が寝床になった。

ハーグ条約に則る扱い「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」が徹底され、毎日午前と午後に1時間の散歩が許され、週に2度は海辺にある中津公園へ3時間の遠出が許可された。また、周囲の村にも自由に立ち寄るこどができ、酒保(売店)が開かれ菓子、果物、たばこ、麦酒が買えるようになっていた。

収容所には2つの男性合唱団があり、到着後とりわけ力を注いだのはクリスマス祭用の歌の練習だった。ささやかにクリスマス祝うことが許されたらしい。「異教の寺院でのこのクリスマス祭は我々の人生において恐らく2度と忘れることのない印象を我々の心に残した」

この頃、パウロ・エンゲルを中心に俘虜たちの寺院楽団が結成され、翌1月10日初めての演奏会が開かれた。楽団はその後丸亀保養楽団となり閉所までの2年半に26回の演奏会を開いた。

丸亀保養楽団は当初バイオリン4人、フルート2人、オルガン奏者で構成されたがピアノ、ビオラ、チェロ、シンバルと次々に楽器を増やした。楽団の練習は週に2回別院の共同浴場で行われた。

1917年に丸亀、松山、徳島の3つを合併した板東俘虜収容所ができ、塩屋を去ったが楽団は「エンゲル・オーケストラ」として継続し、ドイツ人俘虜ヘルマン・リヒャルト・ハンゼンが指揮する徳島オーケストラの第九の演奏が、日本での初演として広く知られている。

丸亀に収容された324人のうち現役軍人と非軍人の割合はほぼ等しかった。彼らの前職は技術や職人が多く、麦酒醸造、製陶、印刷、製菓、帽子製造に大工など、多彩だった。1917年3月10日・11日には別院の役寺教覚寺で「俘虜製作品展覧会」が行われた。2日間で延べ3万人が入場し、9割が完売したというから、その盛況ぶりがうかがえる。

1917年4月7日、新築された板東俘虜収容所に移るまでの間、塩屋で育まれた俘虜と住民の交流は、意外にも穏やかで温かいものであったことが知れる。
本願寺塩屋別院沿革